【石巻線女川駅】津波からの復活、海との共存と発展と、

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ここは太平洋沿いの港町。2011年の地震と津波は、この街全てを薙ぎ払いました。その町がよみがえる時、再び鉄道はやってきた・・・


この街の名前は「女川」。東日本大震災の津波によって、この街の1000人余りの住民が犠牲になりました。それから5年たった今、新しい街づくりの真っただ中に再び石巻線こと鉄道が再びこの街に走り始めました。そして津波の被害を受けたにもかかわらず、堤防をあえて作らずに海とともに暮らす街の在り方を見てみます。

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あおばの町から海へ


宮城県仙台駅、東北の代表駅であり、新幹線もほぼ全て停車します。


女川へは東北本線の小牛田から石巻線で向かう方法もあります。でもここは仙石線復旧時に新しく誕生した仙石東北ラインで向かいます。


仙石東北ラインこと仙石線は石巻駅が終点です。ここから女川へ向かうには、石巻線に乗り換えます。石巻線という名前ですが、この仙石線とは違い石巻が終点ではありません。


石巻線は小牛田から前谷地とここ石巻を経由して、終点の女川へ向かいます。しかしこの列車・・・30分も仙石線の接続で待ってくれていたそうで・・・。そんな理由から小牛田から石巻線全線での訪問は、私的にはお勧めできません。

女川復興中


石巻線の終点、女川駅に着きました。行き止まりの線路と真新しいホーム、そして積み上げられた土砂・・・。違和感は正直拭えない雰囲気が漂います。


女川駅の駅舎です。再建から1年たったころです。3階建ての構造となっています。


駅舎の1階は休憩室と土産物店があります。その休憩室に、旧駅舎の写真がありました。他の建物と同様、津波によって壊されてしまいます。しかし私は女川の街中で再会することになります。それは後ほどに・・・。


さらに旧ホームの写真までも掲載されており、1960年のチリ地震による津波の説明がありました。しかし2011年の津波は、このラインを易々と乗り越えるのです・・・


女川駅の2階は憩いの場と浴場になっています。住民や旅人の安らぎの場所です。じゃあ浴場は・・・もちろん写真は撮りません。ぜひ訪問を。


3階の展望台は外階段で行くことができます。まずはホーム側から・・・。1つの線路に1つのホームとシンプルな構造です。そして周りは整備するための石が山積み。今しか見れない復興中の風景かもしれません。


そしてホームの反対側の新しい街並みです。あの津波から町は復興の真っ最中です。しかし真っ先に作るべき津波から町を守るための堤防がありません。その理由・・・、まずは町へ行きましょう。

堤防はいらない!海とともに生きる町


女川駅前にある商店街、「シーパルピア女川」・・・駅から海までを貫く直線歩道、そして飲食店や雑貨店、観光案内所と様々です。


駅から商店街に入ってすぐ右側にあるのが、こちらの「観光案内所」。ここでは女川の観光案内のほかにも、女川の津波前の街並みや復興事業の説明会も行っています。


説明会の映像で紹介された、津波前の女川の町です。今のような街並みとは違い、建物がひしめき合った状態でした。


そして2011年3月11日、この街に津波が襲います。この津波によって約820人の人が亡くなったといわれており、現在も250人余りが行方不明とのことです(2015年の説明当時)。


この津波の教訓から、女川はどのような街づくりをするべきか・・・。答えはこの写真にあります。商店街や漁場・職場を海岸沿い、住宅を高台に建てることにしたそうです。これでもし津波が来たとしても、「帰宅」と「高台への避難」が両立できます。そういうわけで、堤防も作る必要もなくなりました。

蘇った旧駅舎・・・その正体


女川の街の復興をお勉強したところで、今は静かに波打つ海の方向へ足を進めます。しかし復興中の町故に道の工事中で海にたどり着けません。その工事中の柵に掲げられていた「女川交番」についての説明がありました。

昭和55年に建設された、鉄筋コンクリート2階建ての施設。1階が交番、2階が休憩室として使われていました。原位置付近で転倒しており、津波の引き潮により転倒したと考えられます。現在満潮時に30cmほど浸水している状態で、建物の上部には漂流物による損傷等も見ることができます。杭が引き抜かれているのも特徴です。

女川での津波被害を今なお物語るその「女川交番」、その建物が写真柵の向こうに見えています・・・。


「女川交番」の転倒した建物です。私が見つけることができた、女川で津波被害があった事を伝える唯一の構造物でした。建物が転倒したこともさることながら、周りの建物が跡形もなくなってしまっていることに底知れぬ虚しさを感じざるを得ません。なお現在は近づくことができなくなっています。


そして海沿いに右側方向へ向かうと・・・、とある特徴的な建物に出会います。「女川水産業体験館」「あがいんステーション」と書かれています。主に女川特産の水産物を中心としたおみやげ物のほか、調理体験などの水産物に関する実習体験施設だそうです。ちなみに「あがいん」とは女川の方言で「どうぞお召し上がりください」という意味だそうです。


この施設は「ステーション」という名前の通り、駅に関係しているようです。この外観・・・そう、旧女川駅を模したものです。先ほどの写真と比べると細かいところが違うという意見はあるかもしれませんが、津波でもう見ることができない旧駅舎を復元した心意気は大変うれしい限りです。女川駅や街を訪れた際は、あがいんステーション外観だけでも感傷に浸ることができます。勿論土産物を買って地域貢献も・・・とかいう鉄道まみれの私は土産物を買わない迷惑な客でした。

訪問後記

東日本大震災から5年、女川の町は復興して再び鉄道が走り始めました。駅が再開して1年目に訪問したところ、ホームの周りはまだまだ整備中で発展途上の真っただ中・・・。そんな町に出ると人々を襲った穏やかな海が目に飛び込んてきました。それは堤防によって津波を食い止めるというハード的な力技に頼ることを捨て、津波がやってこない高台に住処を移すというソフト面での意識改革でした。この女川の町から生まれた理論的な戦略、勉強させていただきました。今回はこの街の「堤防は作らない」という言葉が印象に残り、どうもメインの鉄道が少なくなってしまった感がありました。また津波以前に存在した旧女川の駅も、再現の形ですが体験施設として建てられていたことにも感慨深いものがありました。まさに鉄道と海で生きる街です。そして津波被害からよみがえった女川駅は、まだまだ発展が止まりません。


始めに紹介した仙台から石巻を結ぶ仙石東北ラインの快速列車ですが、この訪問の3か月後に1日1往復女川駅まで延長運転するようになりました。仙台から1本で女川へ直行してくれる列車が誕生したのです。今は1日1往復ですが、今後の利用次第で増便するということです。つまり今後復興する女川駅を訪問する人たちが増えることで、仙台からの列車も増えるということになるのです。つまり現在1時間1本運行の快速を全て女川行きになるのか・・・と思う私がいます。経費はどうするのかという意見もありましょう。人が増えてから列車を増やすか、列車が増えるから人が増えるのか・・・悩ましいところでもあります。


しかしそもそも堤防なく海を見ることができる町自体、この震災以降希少な存在となっているのです。そんな海を余すことなく望める女川の町に東北の代表駅から1本で向かうことができることは、地域復興という名目を含めても考えなければならない問題でしょう。津波という悲劇を乗り越えた女川の復興のためにも、まずは足を踏み入れることから始めましょう。

それでは、また不思議な鉄道風景でお会いいたしましょう。