【JR常磐線相馬駅~亘理駅】復興が進む街をひた走る代行バス

この記事は約6分で読めます。


たとえ津波によって町が消えてしまったとしても、鉄道が再び代行バスによって人の流れをつなぎます。それは再び町がうまれて鉄道が走り始めるその日まで・・・。


2011年の東日本大震災とその津波によって、常磐線は被災しました。その悲劇を繰り返さないように津波に負けない線路を建設しているその脇で、人の流れを結ぶ代行バスが走っていました。ここでは亘理から相馬を結ぶ代行バスについて説明いたします。なお2016年にここで紹介する区間は復旧を果たし、代行バスでの運航は終わりました。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

区間列車と代行バスのターミナル


2016年当時、常磐線は以下の運航体系となっていました。

  • 品川・上野~竜田      :列車運行
  • 竜田~原ノ町        :代行バス(1日2便のみ)
  • 原ノ町~相馬    :列車運行
  • 相馬~亘理         :代行バス
  • (浜吉田)~亘理~岩沼・仙台 :列車運行

今回はここ相馬駅、亘理駅へ向かう代行バスを紹介いたします。


相馬駅改札上に掲げられていた案内表示です。「原ノ町行列車」・「亘理駅行き代行バス」共に、日中1時間おきでした。これは特急ひたちの運航を除いた被災前のダイヤとほぼ同じです。また当時の常磐線の路線図は、この写真にある運行区間の案内の通りです。


原ノ町から来た区間列車が到着してきました。4駅だけを走る、孤立した飛び地列車でした。ここから亘理・仙台方面へ向かう乗客は、駅前の代行バスへと流れます。


相馬駅の案内・駅名表です。1番線の案内も黒テープでふさがれていました。次の駅を示す「駒ヶ嶺」駅もテープで隠されています。駒ヶ嶺へ向かうには、駅前の代行バスへ・・・。

代行バスで北上、各駅”バス”停車の旅

相馬駅


さて普通の列車と同じく、乗車前に切符を見せて代行バスへ。ご丁寧に「各駅停車亘理駅」と前に書かれています。停車駅は相馬・駒ヶ嶺・新地・坂本・山下・浜吉田・亘理です。また、新地しか止まらない快速便(?)も1日数本ありました。では出発!基本国道6号線を使って北上するルートでした。

駒ヶ嶺駅


まずは先ほど相馬駅にてテープで隠されていた駅・・・駒ヶ嶺駅です。国道から駅前通りを通り、わざわざ鉄道駅の駅前まで・・・。ちなみに跨線橋を直している以外は、震災以前のまま変わっていませんでした。この駅は内陸側で比較的高い場所にあったため、被害を免れたようです。

新地駅


次は新地駅です。とはいってもかつての駅前ではなく町役場にバス停がありました。


バスからのぞくと町役場の前に地図がありました。被災して不通になっていた常磐線が書かれており、震災前の地図のようです。鉄道駅はさらに北の「舛形」というところにあったのですが、津波によって完全に破壊されました。なお復旧した鉄道駅は少し内陸側に移設され、高架駅として開業しています。そしてここ新地駅を出発すると、福島県を越境して宮城県に入ります。


途中バスの中で見えた街並みでです。町の復興も着々と進んでいました。特に整備された公園とビニールがまだ被ったままの遊具があり、これはこれで珍しい光景でした。

坂本駅


さて宮城県に入って最初の駅・・・坂元駅です。国道6号線上の「山元町坂元」交差点にあり、仮設のプレハブ待合室も完備。なおその交差点の海側方向に駅前道路が伸びており、鉄道駅はその道路の終端にありました。その場所の悪さから震災と津波の直撃を受け、完全に破壊されてしまいます。それから5年、その反対側こと海方向を見ると・・・


なんと常磐線の高架橋が目の前に・・・実は線路が内陸側となり、かつての海沿いからここ交差点近くに線路が移動となりました。この半年後、この場所に坂元駅が復旧します。


国道6号線から山方向に曲がると、無機質な仮設の建物が・・・。よく見ると「仮庁舎」と書かれています。ここは山元町の仮庁舎でした。

山下駅


そんな山元町仮庁舎の中に・・・山下駅がありました。町役場の利便性を考え、ここに設置されたようです。この時気づいたのですが、下+坂=山元町・・・だったわけですね。町の名前が変わっても、駅の名前が変わらないことによって集落名のルーツが判る例です。


鉄道駅は、ここから反対側こと海側へ向かって県道121号線の終端にありました。津波の直撃こそ受けなかったものの、駅舎崩壊の恐れやルート変更により駅は撤去されました。なお写真中央付近に常磐線の高架橋が見えます。この近くに復旧した山下駅ができました。

浜吉田駅


亘理町に入って代行バス最後の途中駅・・・浜吉田駅です。国道6号線沿いの途中にありました。バス停裏手の畑やトラクターがまたいい風情を出しています。なお鉄道駅は真西方向1.5km先にあり、震災後1年で既に復旧して暫定的な終着駅でした。しかし写真を見ると「亘理町民乗合自動車」こと「さざんか号」の中原バス停と同じ場所に設置され、その利便性維持のためか亘理~浜吉田の鉄道復旧後も、この区間の代行バス運航は維持されました。

亘理駅


1時間の乗車時間を経て、代行バスの終点・・・亘理駅に到着しました。乗客がおりやすいようにわざわざステップをどうも・・・。常磐線はここから岩沼・仙台まで列車で向かいます。

常磐線は東北のみちへ・・・


常磐線亘理駅の駅舎です。駅裏手に「悠里館」と呼ばれる天守閣を模した郷土資料館があり、駅舎もその一部のような外装をしています。


亘理駅の中にあった列車案内です。代行バスと同じく日中1時間弱の間隔で運航していました。この時間帯は、2本の列車が東北本線仙台~岩沼~浜吉田を往復するダイヤでした。なおこの案内は仮テープでの対応らしく、うっすらと裏地に「いわき」の文字が浮かんでいます。


亘理駅のホームに出ました。今立っている駅舎側のホームが1番線です。屋根があるところまでが本来のホームであり、工事でさらにホームを伸ばしていました。反対側2番線は跨線橋ごと封鎖されており、線路は錆びて草が生えていました。

訪問後記

2011年の東日本大震災から5年、常磐線の代行バスも珍しい風景ではなくなりつつありました。常磐線は津波による被害の反省から、内陸側への移設によって時間がかかっていたのです。代行バスから外の風景を見ると、復旧中の常磐線よりも真新しい建物群が目立ちました。一見すると町ごと開発しているニュータウンのような風景に見えます。しかし海側を中心に資材が投げ置かれていたり、不自然な草地が広がっていたりしていました。訪問時は穏やかに見えた海も、あの時あの時間は別の姿を現したのです。それは人々の想像をはるかに超えるものでした。


しかしそれでもこの地から人々が離れることはありませんでした。人々は代行バスで営みを続け、また鉄道での常磐線の復旧を行いました。復旧中の常磐線は高架化され、再び津波が来ても流されない構造になりました。それは震災前の生活に戻ると同時に、悲劇を繰り返さないようにする決意ともいえます。

そして私が訪問した半年後、この区間は復旧を果たしました。同時にそれまで足となっていた代行バスに別れを告げ・・・。

2016年に津波被災区間が復旧!

2016年に津波被災区間の浜吉田~相馬が復旧しました。これによってバス代行は廃止され、列車での運航が始まりました。現在は写真でも紹介した高架橋を通って仙台~原ノ町まで運航しています。
上野から北上しながら紹介した常磐線も、名取で終わります。再び大きな動きがあれば、訪問いたします。

それではまた不思議な鉄道風景でお会いしましょう。

2016年常磐線震災区間訪問ページ

【JR常磐線竜田駅】原発事故で終点となった駅
常磐の国と福島浜通りを縦断する常磐線、東北本線と並ぶ北へ向かうルートでした。しかし2011年3月11日の大地震と津波、そして翌日の原発事故・・・いわきからあおばへ向かうルートは閉ざされ、避難区域手前で列車は止まりました。 JR常磐線は...
【JR常磐線竜田駅~原ノ町駅】原発地帯を繋ぎ止める代行バス
太平洋沿いを通りながら東京と仙台を結んでいた常磐線、しかし2011年の東日本大震災および福島原発事故によって線路は断ち切られました。その断ち切られた人々のために運航している代行バス、今も避難を余儀なくされている原発地帯を健気に走る姿を紹介...
【JR常磐線原ノ町駅~相馬駅】東日本大震災によって孤立した飛び地路線
東日本大震災によって、常磐線の南側は原発事故、北側は津波による線路流出でばらばらになりました。そんな中、わずか4駅であっても孤高に運航を続けた区間列車がありました。再び1つの常磐線として走るその日まで・・・。 今回紹介するのが常磐線「...