【石勝線夕張支線】全駅無人の駅舎を持っていたローカル線

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ここは北海道内陸の1日5本の普通列車しか来ないローカル線。そのローカル線には、誰もいない大きな駅舎が全ての駅にあった。それは最期の時を迎えるまで、多くの乗客で賑わった過去を物語るように・・・。

石勝線夕張支線、明治の北海道開拓時代の1892年に開業し、夕張地区および夕張線沿線の炭鉱から採掘された石炭を輸送してきました。しかし石炭産業の斜陽化により乗客数は激減、夕張線全駅は無人化されてしまいます。そのため無人駅にもかかわらず、多くの乗客を収容した当時の大きい駅舎が残されたままとなっているのです。

なお2019年3月に夕張支線は営業を終了することになりました。夕張市は2007年に破綻、最後まで石炭に代わる他の産業を見出すことはできませんでした。明治の初めから石炭輸送で活躍し、昭和の高度経済を支えてきた鉄道路線は、平成の次の未来に辿り着くことなく潰えてしまいました

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紅葉山は夕張への入口

札幌・千歳から帯広・釧路方面を結ぶ石勝線、その中間駅にある新夕張駅です。大半の特急列車も停車する重要な駅です。同時に夕張市中心部へ向かうための玄関口となっています。

しかし石炭輸送が栄えていたころは十勝へのルートを結ぶ石勝線は開通しておらず、札幌・追分から夕張を結ぶ夕張線でした。そして新夕張駅も紅葉山駅という名前でした。その構内は石炭輸送を行う貨物列車が行き交い、活況があったことがうかがえます。

その後石炭輸送が退潮すると同時に新夕張と新得を結ぶ高速ルートが完成、夕張線は整理されることになります。まず十勝方面へ向かう新しいルートは、新たに石勝線と名付けられて特急列車が行き交うメインルートとなります。一方取り残される形となった新夕張から夕張のルートは、夕張支線として切り離されました。

駅員がいない大きな駅舎を巡る旅

新夕張駅のホームに夕張行きの普通列車がやってきました。石勝線は新夕張駅から十勝方面の列車は特急列車だけであり、普通列車は全て夕張方面しか向かいませんでした。

普通列車のサボ、つまり行先表です。夕張と千歳を往復する運用でした。夕張支線廃止前は朝の一往復を除き、石勝線の普通列車はこの1つの列車だけが4時間周期で往復する運用となっていました。

【沼ノ沢駅】駅員がいない喫茶店の駅舎

夕張支線は、新夕張駅から分岐して夕張国道に沿って走ります。沼ノ沢駅は沼ノ沢の町の正面にあり、真谷地の町に分岐する場所にありました。

1つ目の駅、沼ノ沢駅です。横幅を聞かせた駅舎が特徴的です。しかし駅としての機能は右側の待合室部分だけであり、残り左側の大部分はレストラン「おーやま」が入店しています。

駅舎の中は、座布団付きの椅子がある以外は無人な空間が広がっています。駅事務所があった場所は、すべてレストラン「おーやま」に転用されています。「おーやま」は飲食の他、入場券や記念切符も売っています。

沼ノ沢駅のホームです。今は右側夕張線の線路だけになっていますが、さらに右側にも多くの線路がありました。ここから北海道炭鉱汽船が運航していた真谷地炭鉱専用線が1987年まで発着していました。

【南清水沢駅】鶏の住まう香りが漂う駅

夕張支線は夕張国道に沿って南清水沢の町に入ります。町を東西に横切る道路の踏切を越えた直後に位置していました。

2つ目の駅、南清水沢駅です。ほかの夕張線の駅舎に比べて比較的小さめな駅舎です。1962年開業と夕張線の中でも一番新しい駅であり、夕張高校に通う学生およびその周辺に住む利用客のために開業しました

南清水沢駅は他の駅とは異なり初めから石炭を採掘する専用線はなく、広い構内を持たない純粋な夕張線の中間駅でした。列車数自体が少なくなった廃止前は全列車が停車しますが、開業当初は半分ほどの列車が通過していました。

駅舎の内部はこのような感じです。他の駅より狭いですが、机やパンフレットが置かれていました。そしてなんと窓口も開いています。でも写真では伝わらないのですが、ものすごい北海道独特の飼料のにおいが漂っているのですが、その正体は・・・。

駅舎の中には鶏たちの写真が張られていました。どうやら駅舎を鶏舎として利用しているようです。夕張線亡き後も、駅舎の使い道は決まっているようで何よりでしょう・・・。

【清水沢駅】炭鉱都市大夕張へのターミナル駅

夕張線はさらに北上を続け、清水沢の町に入ります。清水沢駅は清水沢駅の町の中心部に位置しています。なお夕張国道は清水沢の町で夕張線とは離れ、南大夕張および鹿島地区こと大夕張方面へ向かうことになります。

3つ目の駅、清水沢駅です。1987年まで大夕張方面に通じる三菱大夕張鉄道も分岐していたターミナル駅であったため、夕張線の中でも一番大きな駅舎を持っていました。

駅舎の内部です。元ターミナル駅ということもあって大変大きい空間がありました。そして夕張線の他の駅が次々に無人になっていく中、清水沢駅は2015年まで唯一駅員が配置されていました。

ホームに出てみると、駅舎とホームが異様なほど離れています。この間に多くの線路が敷かれて多くの貨物列車が行き交っていたのです。2004年まで清水沢駅は行き違いが可能な主要駅でした。しかし清水沢駅での交換設備廃止されて中間駅になってしまった結果、夕張支線は1つの列車しか運航できなくなりました

【鹿ノ谷駅】夕張鉄道が接続した分岐駅

夕張国道と別れた夕張線は北上を続け、山奥を突っ切ります。そして平和や若菜の町も通過、鹿ノ谷の町へとたどり着きます。なお若菜は1975年まで夕張鉄道の駅が存在し、現在もバスターミナル併設の本社を構えています。

夕張線は沼ノ沢・清水沢・夕張(アイヌ語で湧水地)という「水」に関係する駅名で占められます。しかし次に向かう鹿ノ谷駅は、その名前の通り「鹿」に由来します。そして写真のように列車に乗っていると、鹿に出くわすことも珍しくありませんでした。

4つ目の駅、鹿ノ谷駅です。深い森を背景に青い屋根を持つ庇付きの駅舎、まさにThe北海道の駅とも言わんばかりの大きい駅舎でした。1975年までは野幌・栗山から夕張を結ぶ夕張鉄道が交わる分岐駅でした。

駅舎の内部です。隣の清水沢駅に負けないくらい殺風景な空間となっております。それもかつての夕張線と夕張鉄道の乗換駅とあって、大変広い空間です。藤城清治氏の絵があちこちに掲げられていました。

鹿ノ谷駅の全景です。現在は駅舎隣接のホームに夕張線が発着するだけの構内ですが、かつて左側には夕張鉄道の車両基地を併設した側線が大量にありました。しかし夕張鉄道に関する遺構や説明は、この駅には全くと言っていいほど残されてはいませんでした。

ちなみにこちらは夕張市石炭博物館に展示されていた夕張鉄道鹿ノ谷駅の構内図です。現在の夕張線の線路1つどころか、いくつにも及ぶ側線、数棟の車庫、転回台と現在の姿では想像できない規模だったことがうかがえます。左上の写真のように夕張鉄道の拠点として担った主要駅でした。

そして半世紀後、同じ場所で撮影した姿がこちらになります。平和炭鉱の閉山に伴い、1975年に夕張鉄道が廃止となります。そして半世紀が経過し、石炭輸送でにぎわった構内は本来の自然の姿に帰りつつありました。今は左側にある夕張線1本の線路だけとなりました。

【夕張駅】炭鉱、そしてリゾートへの終着駅

夕張線もあと少しで終点、夕張駅に着きます。夕張駅は鹿ノ谷の隣町である末広に位置しており、「ホテルマウントレースイ」に隣接していました。

5つ目の終着駅、夕張駅です。夕張線開業時は夕張炭鉱の入口にありましたが、2度の移転を経て1991年にホテルマウントレースイのわきに移動しました。

夕張駅は1991年に移設されたため、夕張線の中でも一番新しい駅舎でした。駅舎の中は夕張の土産店になっており、改札や切符販売はしていませんでした。

夕張駅の全景です。1つの線路に1つのホームという終着駅行き止まりというスタイルでした。1991年に移転および新設したため、コンクリート製のホームという真新しい形でした。

夕張駅と「ホテルマウントレースイ」です。 ホテルの建物が大きすぎるあまり、右にある夕張駅がものすごく小さく見えてしまいます。なお入場券や記念切符はホテルのフロントが委託販売していました。 本当は夕張駅の詳しい紹介は、以下の記事をお読みください。

訪問後記

ここは夕張の石炭博物館、採掘に勤しむ作業員たちの姿です。明治時代の北海道開拓から、夕張は炭鉱の町として発展してきました。

石炭産業の隆盛は、多くの人々をひきつけました。写真は夕張の炭鉱で働く人たちで開かれた運動会や親睦会の様子です。

しかし夕張の石炭は、高度経済成長の終焉と国外産との競争に敗れてしまいます。昭和の終わりになるにつれて夕張一帯の炭鉱は次々に廃業していき、平成の初め1990年までにはすべての炭鉱が閉山となります。

そして石炭産業が斜陽になると同時に、夕張線もその運命を共にすることになります。写真は清水沢駅の全景、石炭輸送を失ったのち、1987年の三菱大夕張鉄道の廃止、2004年列車交換の廃止、そして2015年に無人化・・・開業してから120年、石炭輸送で重要な役割を担ったターミナル駅は、その役割を失った平成の30年余りで広い空間だけを残した無人駅となってしまったのです。

そして石炭亡き夕張市は、「炭鉱から観光へ」というスローガンを掲げた産業政策によってリゾート開発を進めます。終点夕張駅も夕張炭鉱からホテル前の玄関口まで2kmを移動させてまで、夕張線はリゾート路線になるはずでした。しかしこれらの政策はすさまじい赤字を招き、夕張市は2007年に破綻に至るのです。

石炭産業を失ってしまった夕張市は、人口を大きく減らしてしまいます。この写真は鹿ノ谷駅の駅舎からのぞいた街の風景です。鹿ノ谷の町は、石炭産業に携わる人が住まう高級住宅地でもありました。しかし人口が減り続けた結果、残ったのは小さな町には似合わない駅員なき大きな駅舎が残ることになります。

そして2019年4月、遂に石勝線夕張支線は廃止されることになりました。産業の繁栄を示した駅舎は、本来の役割を再び果たすことなく路線もろとも消えてしまうことになりました。